抵抗しない静けさを生きる

今日の夕方の海。波ひとつない静けさの景色とわたしの心が重なった。

わたしがまだ幼き少女だった頃、当時家庭では父が荒れていて物を投げたり、母に対して暴言を吐いて母が泣いている姿を目にしながら育ってきた。

いつの日かわたしは母の笑顔がみたい一心でいつも元気で笑顔でいようとするわたしがいた。

学校でいじめにあって母に泣き付きたくても、母を悲しませたくないからそれでも笑っているわたしがいたり、
本当は無邪気なわたしでいたかったのに、両親が共働きだったから学校から帰ったら母の喜ぶ顔がみたいが為にお家のお掃除をして待っていたり、いつもいつも親の顔を伺いながら生きている事が当たり前だったし、本音は見て見ぬ振りだった。
わたしさえ元気でいればきっとみんな笑ってくれる。そうした方が調和のある空気で家が満ちるんだって思ってた。

悲しくて、泣きたい時はお仏壇で手を合わせてお経を唱えながらとにかく祈ってたのを覚えてる。

そうして幼少時を過ごしていたからか、大人になってもわたしはどんな時も元気でいないといけないという思いが当たり前になっていて、むしろ元気でないわたしはダメだって、弱ってる自分を否定して生きてきた。

でもそのおかげで、色んな事をこなせるわたしにもなれたし、多少の事は踏ん張って乗り越えてきた。

でも、わたしの本音は、本当は本当は辛い時は母に泣き付きたかったし、いい子でなくても、ただ素直に甘えるわたしでいたかったんだよね。

そんなわたしをずっとずっとわたしは許したかったし、愛したかったんだって気づけた時、何日も泣き崩れたよね。わたしの心の奥で小さくなってしくしく泣いてるわたしを迎えに行くようにさ。

それに気づけてから、なんだかものすっごく楽になってね。

そりゃそうだよね。それだけずぅーーーっと本音の自分を出しちゃダメだって責めてたんだもんね。そりゃ苦しいし、辛かったよね。

ずっと自分の本音に抵抗して、本音を責めて元気でいようとしたり、笑顔でいようとしてたって事だもんね。

いやぁ今思うと本当によく頑張ってたよね。

今だからわかるけどさ、本当に目の前の人を安心させたり、心地良く出来るのって、自分が本音に抵抗してないとき=心から安心してる時なんだよね。

自分の本音に抵抗して責めてる時の自分から放たれてる波動は、いくら顔は笑顔で元気に見せてても、その責めてるしんどい波動の方が実は放たれてるよね。
そうすると周りにも笑顔で元気でいるように頑張らせちゃったり、
そうなってる時は、わたし自身も目の前の人が笑顔や元気じゃないと自分が落ち着かなかったり、責める気持ちが出てきたりもするよね。

本当に目の前の人に心地良さや安心を与えたいのなら、わたしがわたしの本音に抵抗せず、そのままの想いを許してそのままにさせてあげること。
笑顔でいれなくても元気が出なくてもその自分をそのまま愛してあげる事で「それでいいんだよ」って自分の中に安心と安らぎが生まれ、その安らぎの波動が自分を中心に周りに放たれるんだよね。


笑っていなくても、元気に振る舞わない静かなわたしでいても、たとえ泣いていたとしても、そんなわたしをわたしが許してそのままにしてあげてるだけで、目の前の人も同時に「それでいいんだ」って安心がそのまま鏡合わせのようになって自然に癒されていく奇跡を受け取ることが出来るんだ。

わたしは、あなた。

こういう事だったんだねってやっと受けとった気がした。

心底嬉しかったな。自分が自分を許すだけで、誰も変える必要なんてないし、癒そうとする必要もないんだってね。

わたしが内なるわたしの本音に繋がって、ただただ感じるままを抵抗しないで許してあげてるだけ。

本音を大切にして、共にいるだけ。

それでよかったんだって心から思えた時、とってもとっても深く安心した。

わたしの本音と瞬間瞬間共にい続けることで、やっと自分の内の静けさを愛せるようになった。

わたしがわたしと一致したんだとまた涙したよ。

やっとやっとほんとうのわたしに出会いなおした感じで、産まれたての赤ちゃんみたいで。

わたしってこんな人なんだ、わたしってこんなに繊細なんだねってさ。

そんなわたしの静かな安らぎと今日の夕方の海が重なったんだ。

今日もギフトをありがとう。

今日も心重ねてくれてありがとう。


kumi






ひとしずく

自然と溶け合い生きている日々をつづり、一人一人のいのちがこの世界のひとつのしずくとして、あいの波紋を広げていけたらといつも想い生きています。 花療法、Qigong 、Retreat senter「森の唱」を通して、わたしに出来ることお伝えしていきます。

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